IBMA極真会館 岡山県本部  空手道の歴史








空手道の歴史7(昇段者レポート)

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空手道の継承福田尚起(津山道場) 
●空手道の歴史を学ぶ意義
私は、空手という武道を通して心身共に強くなりたいと思い、日々鍛錬しています。空手で心身を鍛錬するといっても、武道とは、そして空手とは何かが明確でなければ、修行の内容や目標とするものが曖昧になってしまいます。

そこで、武道を志す者自らが日々の鍛錬、練磨を通じて武道観を養う為には、空手の源流や歴史を知っておくことも大切だと思い、空手界における様々な出来事や時代の流れを追いながら空手道を求めることにしました。

●空手道の発祥
日本の空手の発祥の地が沖縄(当時の琉球王国)であるということは既に承知されている事実であります。

しかし、原点はインド古代の闘技に源を発し、仏教東漸(ぶっきょうとうぜん)に伴って東方各地に影響を及ぼし、各民族固有の闘技と結びつきながら、中国、沖縄へと伝来したようです。

そして、沖縄には地理的に海賊などの外部の敵が入りやすかったことで、自己防衛の為に「手(ティー)」といわれる独自の武術が生まれたと言われています。

貿易が盛んだった琉球王国は、中国人との交流もあり、そこに中国伝来の「拳法」が融合して発展したのが唐手で、現在の空手の原型といわれています。

沖縄が琉球王国という独立国家だったということで、「琉球拳法」という人もいるようです。


●沖縄武術としての発達
さて、その唐手が沖縄で大きく発達するきっかけとなったのは、当時の琉球国王である尚真王(しょうしんおう)<1477年~1526年>が中央集権化による「禁武政策」によって武器の携帯を禁止されたことと、薩摩藩による琉球侵攻<1609年>であるという定説が今日に伝わっているようです。

そして武器の携帯を禁止された琉球の民達は、武器を持たず戦える武術を身につけることを余儀なくされることとなります。当時の唐手は、まさに武器に対して徒手空拳で身を守る術であり、戦えば生か死かのいずれかでありました。

もちろん、刀と素手で戦えば、天と地ほどの腕の差がなければ到底勝ち目がありませんでした。

そこで、身の回りの道具を利用して鎌、ヌンチャク、トンファー、棒など身を守るための武器術なども必然的に開発されていきました。しかし、その技は一子相伝の秘術として長年表面化することはなかったと言われています。


●流派の発生~教育への導入
その後、明治後期、首里手(しゅりて)松村宗根<1809年~1899年>、泊手(とまりて)松茂良興作<1829年~1898年>、那覇手(なはて)東恩納寛量<1853年~1915年>などの中興の祖により近代の空手の元になる形に体系化されました。

またその後、糸洲安恒<1831年~1915年>によってまとめられた「唐手十ヶ条」が沖縄県学務課に提出され、唐手は学校体育で取り入れられるようになり、一子相伝の武術から近代体育となったようです。

1900年代には松濤館流創始である船越義珍、糸東流創始である摩文賢和、上地流創始である上地宗文、剛柔流創始である宮城長順等によって、日本全国にも紹介されるようになりました。

もともと空手には、投げや関節技等を含んだ総合格闘技であったのですが、本土に空手を紹介するのにあたり、本土には既に柔術や柔道といった武術が存在していた為、空手を打撃中心の武術として紹介しました。


●唐手から空手への名称変更
この頃、唐手より空手と変わったとされています。この理由には、中国との問題や素手で戦う武術という意味など色々な説があるようです。

では、空手とは何かと考えたら必殺の技であることは確かであります。しかし、“武”とはあくまでも攻撃ではなく、守りの意味を強く主張されて来ました。これは沖縄空手の『空手に先手なし』という言葉に意味するのかもしれません。

武術とは技であり、肉体的な世界であり、この武術を過酷なまでに修練していく過程を経て、精神世界と一体化した武道へと昇華されて今日に至るのであります。すなわち、空手は武術であり武道であると言えるのかもしれません。

 
●流派の乱立から空手の方向性を考える
そして、現在の空手界にはこの歴史の中で、各々の武道観、すなわち道を究める為の「守・破・離」の3つの過程を経て数え切れないほどの団体、流派、派閥に分かれ、各流派の創始者の精神、教えを伝えながら独自の空手理論で指導されているのが現状です。

「唐手」から「空手」、そして現代では「カラテ」「KARATE」などとも表現され、空手は様々なスタイルや技術体系になって世界中で日々学ばれています。

また、推定競技人口は、サッカーやバレーボールに次ぐほどの国際的地位を確立しています。

歴史を振り返ってみて、これからの空手は「打・投・極」のあらゆる局面で対応できなければいけないと私は思います。


●私見・考察
それぞれの流派、団体が様々な発送で進化していく中、私自身も進化できるよう日々鍛錬を続けていきたいと思います。

IBMA極真会の道場ではフリースタイル空手を学ぶことができますので積極的に学んでいくと共に、ヌンチャク、トンファー、棒術などの武器術も機会があれば学び、幅広く体験したいと思っています。

今まで目標に向かってがむしゃらに練習してきましたが、歴史を通して空手の本来のあり方等を改めて理解できました。自身の組手スタイルで考えてみても、終始攻めのパターンだけではなく、守りから攻め、攻めの中に守りを入れるなど、幅広く視野を捉えての組手を考えていくことが大切であることが実践だけでなく理論も踏まえることによって納得できたように思います。

今後この空手の歴史が形こそ様々ではあるものの、途絶えることのないように“武道人”として継承できるよう一層の努力をしていきたいと思いました。
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[ 2014/01/21 16:10 ] 空手道の歴史 | TB(0) | CM(0)

空手道の歴史6

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空手の源流  …波間博史(妹尾道場) 
●沖縄から日本本土へ

「空手」が「唐手」と沖縄で呼ばれていた様に源流をたどれば中国拳法に行き当たります。

琉球に於いては古来より日本本土と同様の武術の素地があり、尚且つ中国との交易で得た人材・技術を吸収し、独自の武術として発展させていった様です。

次に現在、我々が接している「空手」とはどの様に体系化されたのか考察したいと思います。

大正11年、東京に於いて体育展覧会が行われ、これに沖縄県も参加し、唐手を初めて公の場で公開することとなり、この時に演武を行ったのが船越義珍でした。

この体育展覧会を見た柔道の嘉納治五郎の招待により、船越義珍は講道館においても演武を行い、しばらくの間、講道館にて空手の講習会も開くこととなりました。

この時に借りた柔道衣が後に空手衣に変化しました。

講道館における柔道との交流は、その後の空手の運命をも決定づけたようです。

よく、「空手は突き、蹴りの武道であり、投げたり逆を取ったりするのは空手の技ではない。」、「古流の空手には投げや極めもあった。」といった言葉が聞かれますが、このように言われるようになった発端の一つに、この柔道との交流が関わっていたのは間違いないようです。

これから本土に唐手を根付かせようというときに大同小異の技を見せても仕方がない、本土にはすでに投げや極め技追求する柔道(柔術)が存在する以上、柔道にはない突きや蹴りの武術として空手を広めた方が、当然有利なはずでした。

空手の技には、突き蹴りにも使用するが、投げや逆技にも使用できる技、さらに武器を持てば、そのまま武器術として使用できる技も多く、そうした空手の武術としての汎用性が喪失した理由の中には、本土に唐手を広める上での事情があったようです。


●“唐手”から“空手”へ

その後、昭和10年、船越義珍によって「唐」の文字が「空」へと改められることとなりました。

これは当時の日中関係の事情からによるもので、中国を示す「唐」という文字は適切ではないという判断から般若心経の「色即是空」より「空」の文字が取られ、今日我々が使う「空手」という言葉が誕生しました。

こうして空手は本土に浸透していったが、技術的差異や伝承系統によって細分化していくに従って、看板名すなわち流派が必要となってきました。

最初に流派を名乗ったのは、中国南派拳法の影響を強く受けた那覇手の流れを汲む宮城長順が創始した「剛柔流」です。

これを皮切りに、本土における空手は次々と流派名を名乗っていくこととなるが、その中でも「剛柔流」「松涛館流」「系東流」「和道流」の4つを「四大流派」と呼びます。


●空手の競技化へ

次に、近代空手についてですが、空手を武道スポーツとして柔道・剣道に比肩しうる存在とする為には、組手の試合化が必須でした。

しかし、組手を競技化する為には、実戦性と安全性の両立という矛盾をクリアーしなければならず、そのような中で初期に最も研究されたのは防具組手でした。

これは韓式館や東京大学空手部を中心にかなり研究されましたが、当時は間に合わせ程度の防具しかなく、危険度も高かったようです。

その後、拓殖大学空手道部が中心となって創案した寸止めルールが時代の主流を占めることとなりました。

後に空手の統合組織として誕生する全日本空手道連盟においても、寸止めルールは正式採用され、ひとまず競技空手は完成したかに見えました。

全空連の設立と共に、空手は一気に市民権を得ていくこととなります。

インターハイの開催を皮切りに、1978年からは国体のデモンストレーション競技に、1981年からは正式種目として採用され、空手競技は国民スポーツとして認められるようになったのです。

また、組手と共に、空手の伝統的な稽古法である型の試合も行われるようになりましたが、一方で、型の実戦の妙味が崩れることを嫌い、全空連から離れていく門派もあり、また組手の部においても、寸止めルールに不満を抱く門派が徐々に現れてきました。

中でも、最も過激なまでに全空連を批判し、自流の思想を実行したのが大山倍達率いる極真会でした。


●空手界の現状と今後

極真会の大会は、顔面への手技を禁じた以外は素手・素面でどこにでも直接打撃を行ってよいという、当時としては非常に過激なルールで行われました。

この極真の試合は漫画や映画の題材ともなり、また格闘技色が強かった為、空手の大会としては初めて興行としても成功。

空手の枠を超えて、格闘技界を代表する程の存在となりました。

確固たる地位を築いた極真会ですが、次第に極真ルールにも不満を唱える団体が登場しました。

「実戦とは何か?」を追求する団体が出るにしたがって、顔面パンチがない、掴みがないなどの極真空手の規制を実戦的ではないと解釈する者も増えてきました。

現在は、グローブ空手(顔面有り)、ポイント制直接打撃、防具付KO制で極力、禁じ手を廃止しようとしている団体等、様々な考え方の団体が乱立している状態です。


●私見・考察

最後に、私見ではありますが、現在の空手の様々な形態というのは有っても良いと思っています。

確かに柔道のように世界基準のルールが有り、オリンピックを目指して選手は大きい夢を見ることが出来るということもありますが、

それによって失われているものも非常に多いのではないか?本来の武術性等は、スポーツ競技という名のもとにかき消されていっているのではないだろうか?ルールにしても、各国の思惑やパワーバランスで理不尽な変更があったりもするのが現状です。

私は、若い人がもっと強くなりたいと競技に励むのも良いし、テレビに出るようなファイターになって有名になりたいという人がいても良いし、その受け皿があるのは良い事だと思います。

ただ、個人的には、もっと深い生涯学習の一環として空手を学びたく、その為に古来の身体操作を駆使した旧来の伝統空手、型も単なる競技用としてではない本当の用法を学びたいと思っています。

組手についてもやはり、顔面の攻防は当然ですが、逆技等、相手を無力化する技もやはり取り入れるべきだと思います。

今後は実戦性と安全性とのバランスを取っていくことが最重要課題なのではないでしょうか。

[ 2012/12/03 16:04 ] 空手道の歴史 | TB(0) | CM(0)

空手道の歴史 5

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組手試合の普及
空手のは日本本土での普及は、1916年以降になりますが、これ以前の稽古は、「型」を繰り返すだけで、あとは「巻藁」を突いたり、蹴ったり、或いは鍛練具を使って身体を練るというものだったそうです。

本土で空手を普及するためには、組手を競技化し武道スポーツとして確立することが必要と言われたため、様々な試みが行われました。組手の競技化には“実戦性”と“安全性”の両立という、矛盾をクリアーしなければなりません。

 ※沖縄の先生方は殆どは、実践的な技が疎かになるとして競技試合には反対していたそうです。

一部の道場や大学空手道部で「防具組手」が研究されましたが、当時は間に合わせ程度の材料しかなく危険だったため、次第に「寸止めルール」が主流になっていきました。

当てる寸前に技を止めるこのルールは年齢・性別を越えて取り組むことができるとして、国体の正式種目として採用されるなど多くの流派で用いられるようになりました。

空手競技とは『寸止め』として認められるようになっていきましたが、勝敗自体が明確ではないと、異議を唱える形で極真会館主催による直接打撃制組手試合(第一回全日本空手道選手権大会)が昭和44年(1969年)9月に、開催されました。

今でこそ、このルールは多くの流派にも普及し認知されていますが、当時は過激なルールといわれ非難を浴びました。

この直接打撃の組手試合の起源は大山総裁が所属していた剛柔会にあります。
本土の剛柔会では、独自に「防具組手」や「当て止め」というライトコンタクト空手が研究されており、大山総裁が学んでいた頃は、当てることが当たり前だったそうです。

後に剛柔会が寸止めルールに移行するため、対立し袂を分かち、昭和39年(1964年)、正式に極真会館をたち上げることになります。

現在、フルコンタクト空手と言われる流派だけでも把握しきれない程の数が存在するようになりましたが、創始の大山総裁は、空手だけでなく、格闘技界全体に於いて、大きな影響を与えていることは間違いのない事実といえます。
[ 2012/08/07 15:54 ] 空手道の歴史 | TB(0) | CM(0)

空手道の歴史 4

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極真空手の型

沖縄古来の武術「手(ティー)」と、中国伝来の「拳法」が融合し発展したものが空手の原型と言われています。

この頃は流派と呼ばれるものはなく、型の特色・伝承地名等にちなんで首里城を中心に発達したのを「首里手」、那覇港周辺に発達したものを「那覇手」と呼ばれていました。

いずれも現在の流派の概念をともなうものではなく、個人的な交流(相互に研究)もされながら、それぞれで技法(型)が継承されていました。

●首里手(松涛館流)

「首里手」は、中国の北方の地方で栄えた中国北派拳法の影響を強く受け、その技は柔軟性を重視し、遠い間合いからの直線的でスピーディーな攻撃を主体としています。

首里手の流れをくむ舩越義珍(ふなこし・ぎちん)先生が、文部省主催の演武会で空手(唐手)を披露したのは大正11年。同年、本土に移住し「松濤館(しょうとうかん)」という道場を開きます。

後に慶応義塾大学に空手部を創部。これがきっかけとなり各大学に次々と空手部が誕生します。

舩越先生は大山総裁が最初に空手を学んだ人物です。

●那覇手(剛柔会)

東恩納寛量(ひがおんな・かんりょう)先生が中国の福建省におもむいて達磨大師を発祥とする中国南派拳法を学び、帰国後に指導を行うようになったのが「那覇手」の始まりと言われています。

その直弟子の宮城長順(みやぎ・ちょうじゅん)先生は、中国で中国拳法を修行するように命じられ、多くの武術の達人達から学ぶとともに、古い文献、書籍などを研究しやがて剛柔流をあみ出しました。

大山総裁は、宮城先生の直弟子にあたる、山口剛玄先生に剛柔流を学びました。

●極真空手の型

極真空手の型の多くは松涛館 (首里手)と剛柔流 (那覇手)の型を基に大山総裁の体験的な思想を加え挙動の変更が行われています。

変更の理由には異なる系統の型を学びやすくするために、立ち方や手技などを統一して指導する必要性があったからではないかと推測されます。

極真空手独自の型は、回し蹴り等を取り入れた『臥龍』。また『撃砕小』、『十八(セーパイ)』、『観空』などの同名の型も伝統流派で行われる動作との違いは明らかなので創作型と言って差し支えありません。

多くのフルコンタクト系の流派が型不要論を唱えるなかで、大山総裁は型の重要性を語っていたといいます。

写真左は舩越先生…インテリだったそうです。

写真右は山口先生…いかにも一昔前の空手という感じです。

[ 2012/07/31 15:06 ] 空手道の歴史 | TB(0) | CM(0)

空手道の歴史 3

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武術から武道・体育へ
空手は、もともと琉球王国時代の沖縄で発祥した武術で、昔は手(ティー)もしくは唐手(トゥーディー)と呼ばれていました。

当時は人目につかないよう夜や人里離れた墓地などを選んで口伝と実技(型)のみで伝授され、一つの型の習得に3年を費やしたと言われます。

組手は一種の約束組手が存在していたようですが、自由組手や試合はなく、覚えた技を試したい場合は、立会人をつけて掛け試しといわれる野試合が行われていたそうです。

今日の空手は打撃技を主体とする格闘技(武道スポーツ)として普及していますが、沖縄では取手(とりて)と呼ばれる関節技や投げ技や、棒術やヌンチャクなどといった武器術も併せて修行されていました。

裕福な士族の間で密かに伝えられてきた唐手でしたが、明治12年(1879年)、琉球王国が滅亡すると、唐手の担い手である士族は、一部を除いて瞬く間に没落し、失伝の危機を迎えようとしていました。

この状況を糸洲安恒(いとすあんこう)先生が唐手を武術から体育に変化させ学校教育の一環として公開し普及させることで失伝の危機を回避したのでした。

体育への変化とは主に、型の創作や改良でした。
代表的な創作型である“平安”は“公相君”(クーサンクー・現代名:観空)をはじめとする古伝の型から危険な技(急所攻撃や武器法)を大幅に除き初心者にも修練できるように初段から五段に分類し整理したものです。

初心者用の型として比較的、軽視される傾向のある“平安”ですが、近年では、高度な技法が含まれた重要な型として研究家の間では見直されつつあるようです。

本土では身体操作や実際の用法などが十分に伝承されなかったため、西洋の運動理論などで補われ、立ち方や挙動の変更など各流派で独自の解釈を加えながら継承されています。

写真は、沖縄の空手の達人の先生方。…前列右から2番目が糸洲先生。
[ 2012/07/24 13:39 ] 空手道の歴史 | TB(0) | CM(0)

空手道の歴史 2

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沖縄から日本本土へ
琉球王朝時代、諸外国との交易が盛んだった沖縄では、船が海賊に襲われる事も多く、主に防衛手段として武術「手(テイ)」が発展しました。その後、島津藩の禁武政策の影響も重なり「唐(中国)」や近隣諸国の武術を取り入れた「唐手」が誕生したと言われています。

当時は文字の通り、武器を持たず、手・足のみで身を護る技法と合わせて、棒や鎌など身近にある生活道具を利用して戦う方法も追求されていました。

手(ティー)は本来秘術でしたが、平安の型の創始者である、糸洲安恒(いとすあんこう)先生により戦時下における学校教育の一環として紹介され普及するようになりました。

日本本土で空手が普及するのは、大正時代(1916年)。後の松濤館流の創始者である船越義珍(ふなこしぎちん)先生の演武により紹介され、名称も唐手から空手と呼ぶようになりました。

この頃の稽古法は、型を繰り返し、あとは「巻藁(まきわら)」などの鍛錬具を突いたり、蹴るというものでした。 
この、「型」により鍛錬する、方法は中国武術の影響で、中国では「套路(とうろ)」或いは「拳路(けんろ)」と言います。 

本土では、それを物足りなく感じた若い学生たちが独自に相対して突き、蹴りによる攻防を研究し、やがて競技試合へと整備され現在に至っています。

組手競技の在り方などは常に議論されていますが、競技スポーツとして世界各地に普及し、愛好者人口はサッカーに次ぐという国際的な地位を確立しています。



写真は、日本本土に空手を広めた、舩越義珍先生。

極真空手の創始者である大山総裁がはじめて空手を習った先生です。
[ 2012/07/20 15:53 ] 空手道の歴史 | TB(0) | CM(0)

空手道の歴史 1

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空手の源流…手(ティー)
 
空手の基は、沖縄の手(ティ)という武術です。

中国(唐)や日本、東南アジア諸国などの拳法等と融合してできたもので、昔は唐手(トゥーディ)と呼ばれていました。

一般的に空手のイメージは、突きと蹴りによる打撃中心の戦い方が主となっていますが流派により戦い方は様々です。

首里手といわれる流派は遠距離からの打撃そして投げ技を、那覇手といわれる流派は接近戦での打撃と柔術(関節技)を掛け合わせた技術を使用します。

唐手は門外不出の武術として、沖縄の武士(上流)階級において極秘に継承されていましたが、本土に演武などを通して紹介される際、柔道の分類の下におかれることを避けるために打撃技法に特化した武術としての側面が強調されることになりました。

日本本土に伝わった「唐手」は「空手」という名称が使用されるようになり、沖縄からの伝統流派の他に、新たな流派が多数誕生しました。

その稽古内容は様々で、型のみをひたすら練習する流派もあれば、自由組手を奨励するところもあります。

空手は戦後、米軍の中に沖縄伝統空手道を学ぶものが増え米国本国へと伝えられ更に全世界へと広がっていきました。


PS…写真は沖縄県、首里城の守礼門(沖縄のシンボル)です。

2000円札にも載っています。
[ 2012/07/17 16:09 ] 空手道の歴史 | TB(0) | CM(0)